翡翠にまつわる不思議な話2



私とシェフTは米国のGemological Institute of America という学校のサンタモニカ校の同級生でした。
シェフTはその時は私の後ろに目立たなく座っているただのクラスメートに過ぎなかったのですが
翡翠についてクラスで講義を受けている時、講義の合間のランチの時間に雑談で
Tシェフのおばあさまと翡翠の関わりについて話を聞かせてくれました。
とても心に残る話だったのでシェフTから詳しく聞き取り調査などして
ストーリーを紹介してみたいと思います。

第二次世界大戦当時、シェフTのおばあさまは若い巡査だったおじいさまと小さい3人の子供、
その一番上がシェフTのお父さまなのですが、一家5人で住居付きの駐在所に住んでいました。
静岡県沼津市の下河原という所で海岸まで歩いて20分位の所です
戦争末期のある夜、沼津が大空襲にあいました。


今,ウクライナ戦争ではミサイル攻撃で市民に何人かの犠牲が出たということを
ニュースでよくやっていますが、人権状況が今とは全然違う第二次世界大戦当時は
人の命は今よりも軽く、日本の各都市では毎日のように空襲にあい、
何百人、何千人、何万人の人が命を落としたそうです。

沼津大空襲の夜、おばあさま達が住んでいた駐在所も回りの家同様、炎に包まれ,
一家は着のみ着のまま何も持たず海岸に向かって逃げたのでした。

海岸に無事避難するとおじいさまは仕事に戻ると言っておばあさまと3人の子供を残し、
燃え盛る市街地へ一人で戻って行ったのでした。


夜が明けてもおじいさまはおばあさま達が待っている海岸に戻らずおばあさまは
おじいさまが殉職したかもしれないと思い、大変不安な思いで待っていたそうです。

陽が高くなってから大勢の茫然と座りこんだ避難民の向こうから
察官の制服を着たおじいさまがおばあさま達を探しながら遠くの方から歩いて来るのが見え、
あまりの嬉しさに夢かと思ったそうです。
おばあさまは極度の緊張から解かれ力が抜けて立ち上がることもできず、
ただただ、おじいさまに支えられ泣いていたそうです。

しばらく時間がたち落ち着くとおばあさまは翡翠の指輪が指から無くなっているのに気付きました。
避難する際、必死に子供の手を引っ張ったりしているうちに外れたのかもしれません。

その翡翠の指輪は結婚してすぐにおじい様が買ってくれたそうです
質素な暮らしの中で唯一の宝石でおばあさまはいつも身に着け大切にしていたそうです

おばあさまは孫であるシェフTに「おじいちゃんは若くてお金も無いのに
翡翠の指輪を買ってくれたんだよ。」と若い頃を懐かしむように語っていたそうです。

おばあさまは生前、何回かシェフTに上記のストーリーを語り、
T君、おじいちゃんがお金がないのに無理して買ってくれた翡翠の指輪が身代わりになって
助けてくれたんだよ。あの翡翠は命の恩人だよ。」と言っていたそうです。

あの空襲の夜、沼津では近所の人も含めて何百人もの人が命を落としたそうです。

もし、沼津大空襲でおばあさま一家が亡くなっていたらシェフTも存在しないわけですし、
コロナ禍でもショップチャンネルを通じてお客様に翡翠を買って頂いて
なんとか仕事を続けて来られたわけですから
翡翠とは何か不思議な縁があるような気がします。

それでは!

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